インターネットコミュニケーション~核家族の彷徨える個人~

ホームページの引っ越しやfacebookの手入れ、mixi,twitter,blog,更には、youtube,ゲームとパソコンや携帯を使わないのは、病気の日ぐらい。

以前は考えられませんでしたが、ネット上の知合いとセミナーを開いたり、カフェで話したり、オフ会に参加したりと、知り合うきっかけが、ネットコミュニケーションからだったりするのが、当たり前になってきています。
もちろん怪しげな領域には近づかない様にしていますが、その、「怪しげ」さは自分の判断なので、難しいところでもあります。

ネットで知り合った、見えない相手がリアルな「人」として目の前に現れると、そのギャップに戸惑ったりすることもあるでしょう。
あるいは、思っていた通りの「人」だったと、安心したり。

インターネットの歴史は、まだ始まったばかりですら、しばらく過渡期を経て新たなツールとしての役割を、恐ろしいまでの勢いで、発達しつつ、果たして行くのでしょう。

わたし自身は、丁度その創世記が学生時代から社会に出ていく時だったので、IBMがマイクロソフトへ個人向けコンピューター(PC)のOS発注を出しているころに、「これからのコンピューターは誰でも、個人が持つモノになるだろう」と教えられて、こんな何百万するか分からない(プリンターも含め)高価な機材を、そう簡単に買えるわけがないと絵空事のように聞いていたものです。

ただ、会社の中では、外資だった事もあり、既に自分用のパソコンは与えられていたので、PCの普及はあっと言う間だったわけですが。

実際、家の中でポータブルのパソコンを使い、ネットを繋いだのは、多分15年前。 ブログの開始が2005年になっていますから、丁度その数年前くらいからインターネットは主婦でも少しずつ利用する身近なものになっていたのでしょう。 当時は、写真をダウンロードするのは死ぬほど時間がかかり、動画など夢のような話。

このたかだか二十数年の間に、ネットによる進歩とネットを通してのコミュニケーション、情報取得、更にはネットだけでの付き合い、出会いが当たり前のようになってきているのは、小さな世界で生きているわたしなどには全く想像も出来ない事でした。 そう思い当たるようになったのは、ほんの数年前。

コミュニケーションのセミナーを開いている身としては、この先の流れに大いに興味があると同時に、もっと大きな恐れも感じています。

まだ、誰も見たことのない、これまでにも経験したことのない新たなツールの活躍と利用がどのような方向へ流れていくのかはわからないわけだし、コントロール出来るとも思えないのです。

漠然と感じる恐怖と、依存。 わたし自身も正直太刀打ち出来ず、右往左往している訳ですが、中毒にならない様に、もうちょっと「リアルな世界」に軸足を置いて、根をはらないと本来持っているフェイストゥフェイスコミュニケーション能力は、益々衰えていくと切実に感じています。
それは、最近の子供達やその親子関係を見ていても如実に感じる事でもあります。
泣かない赤ちゃんが増えている、その理由が携帯中毒とパソコンに向かいっぱなしの親が、目を見つめあったり、あやしたり、声かけをしたりの コミュニケーションを取らないから、との結果が出ていてやりきれない思いに駆られます。

家族間の意思疎通さえ上手く行かないのに、社会との協調や自分自身の精神の均衡、拠り所を一体どこに持っていけば良いのでしょう。 核家族の彷徨える個人。 私たちは、世界中の人々とたやすくつながる事が出来るのに、一番身近な家族や本来の自分自身とつながることがとても難しくなっている様な気がしてならないのです。
すべて、人ごとではないこの空恐ろしい空虚さを埋めるためにも、ほんの少し、今日会った人々の顔を、朝食を作ってくれた人の事を、お風呂に入れてくれた人の思い出を蘇らせてみるのも大切な自分とのコミュニケーションだと思います。

 

 


 

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