老いの喜び     2011

強がりの様に聞こえてしまうかもしれませんが、老いると言う事が、決して思っていたような「醜く、魅力の無い、役に立たない存在」では無いことが、分かってきたように思います。
十代の頃は当然ながら、自分の30代、40代など全く想像も出来なかったし、そもそもそんなに生きているのかさえ定かでなかったわけです。 美人薄命ならあんまり長く生きていると、憎まれっ子だと言う事を証明してしまうわけで、出来れば、美しいうちに、惜しまれながら愛する人に抱かれてこの世を去りたいと夢見ていたわけです。 要するに乙女の妄想です。 ところが、20代も半ばを過ぎると結婚や出産、子育てと立て続けにイベントをこなす事になり、日々大忙しで美しき死への妄想など何処へやら、全速力で走り抜けるように月日が流れ、下手すると自分の誕生日さえ忘れてしまう。 子供が手を離れ24時間体制のコンビニ育児から、8時間のフルタイムに、そして4,5時間のパートタイムになるころには、髪に白いものが混じり手入れを怠っていた肌に慌てるわけです。 しかしながら、それを老いの醜さがジェットコースターのように、加速して行くのかと、若い私は思って恐怖を感じていたはずでしたが、いざ老いて行く事と向き合うと、それは想像とは全く違ったものでした。
勿論、たとえ無駄だと言われようと「アンチエイジング」の為に努力をしないわけではありませんが、顔のシミも皺も皮膚のたるみも、幸いな事に一日で出来たわけでは無く、時の配慮とも言うべき執行猶予が十分にあり、徐々に変わって行く自分を、ほんの少し楽しみながら受け入れて行くのは、そんなに苦しい事でも、困難な事でもなかったのです。 これは、思わぬ嬉しい誤算でした。 そうして、更に幸いな事に人類初の中年に私が選ばれたのでもなく、前人未到の「死」を経験する最初の人間に任命されたわけでも無いので、老いていく事、死を迎える事は生きているうちに何度も経験し、先輩に教えてもらえるのです。 その先輩たちがいかに素敵か、いかに楽しげに中年や老人を満喫しているかを見るにつけ、10年先20年先の自分が楽しみで仕様が無いと思えるようになった訳です。 
大好きなみうらじゅん氏が仏教の話に触れユーモアたっぷりに「生まれた時から、余生」とラジオで言っていたのを聞き、何とも可笑しく、何とも解放された思いに心がゆるゆると慰められていくような気がしました。
死に向かって生きていくという事は、どうしても変える事の出来ない事実。 ただ、そこに至るまでのプロセスに大きな学びと沢山のプレゼントが用意されていることに気づかされ、小さな痛みや動かない体を受け入れながら、知らない事への怖さもあるけれど、知らない事の楽しみも捨てがたい。 ちょっと格好つけて、大分いい加減におばあさんになれたらいいと思っているのです。

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