許容     2011

昔から「おおらか」と言う言葉に憧れていました。「おおらか」と言ってみるだけで、何とも言えず良い心持になり、心が穏やかにもなります。 テレビの中で誰かを表現する時にXXさんは非常におおらかな方です、と形容されただけで、見ず知らずのその人を、高く評価してしまいますし、その本人が何かの番組に出てきたりすると、「確かに良い人だ。おおらかだ。」と、何の根拠も無く尊敬してしまうのです。
なぜこんなにも「おおらか」に弱いかと言うと、私自身が全くおおらかではないからです。 今まで一度も、本当に一度たりとも「おおらか」だと評価された事がありません。小さいころから割と神経質だった事もあり、細かい事に目が行き、小さな事を考え続けたり、悩んでみたり。 くよくよして、時を過ごしたり。そのお陰で、随分と無駄に暗く変に考えすぎて、勝手な解釈に自分自身の首を絞めていたような気がします。
今考えても実につまらぬ事に囚われ、疑心し、更には人を受け入れられずに拒絶を繰返していたと思うのです。小さい頃は、大人になればおおらかな人になれると信じていたのに、一向におおらかな要素は育つ気配も無く、三つ子の魂百までの通り、現在に至るまでさしておおらかではありません。 しかしながら、何故おおらかさにこだわったのかは、分かってきたような気がします。おおらかでない自分が非常に苦しかったのだと思います。
おおらかでない、つまりは他人や自分の欠点を許容する事が出来ず、ぐずぐずと悩んだり、我慢や忍耐に嫌気がさして、他人を拒否する。その事で何とか自分を正当化した、その方法が辛くて仕方なかったからでしょう。 だから、ゆったりと構え、小さな事にこだわらず、ドーンと大きい度量を持った人が羨ましくて仕方がなかったのです。一体どうやったら、許容範囲を広くして、度量の大きな「憧れの人」になれるのだろうと、真剣に考えた事もありました。
試しに、ゆっくり歩いて、話し方もいつもと違い物凄くゆっくり、眠くなりそうなくらい、間延びをさせて「おおらか人間」を気取ってみても、結局のところ我慢できず、ホームに滑り込んできた電車に間に合うように全力疾走してしまうのです。 おおらかになるための修行は直ぐに挫けるのでした。 それに、私の周りにいる憧れのおおらかさんと話をしていると、結論が出るまでに時間がかかるので、我慢がならずあちこちはしょって、せっかちに話を進めてしまうし、子どもの失敗を何度も何度も忍耐強く見守る事も大変な苦痛です。 つくづく許容量と範囲の少ない小さな人間だと、悲しくなってしまうのです。 おおらかさとは、許容出来るという事なのかもしれません。 単純に言えば許し、受け入れられるという事になるでしょうか。 そうなのですね。 許し受け入れる事が出来ないから、おおらかでいられなかったのです。 他人を受け入れられるようになるには、忍耐が必要でしょうし、忍耐を磨くためには経験が必要です。 今よりも経験値が低かった私は、当然いろいろな事に、憤慨し、戸惑い、理不尽さや無知からくる失敗、叱責に反発し、許容できない事に苦しんでいたわけです。 しかし、少しづつではありますが、経験を重ね、人と交わり、結婚をし、他人と暮らすことで受け入れざるを得ない事が沢山出来、子どもを育て、子どもに教えられ、仲間が出来、許される事を知りました。 周りの人に許され、あらゆるものを与えてもらいながら、何とか社会で生きる術を得て、おおらかにはなれていなくとも、少なくとも以前よりは、許容範囲や許容出来る量が大きくなってきていると思います。
憧れの「おおらかさ」はまだ、ほど遠いのですが、間違いや失敗を重ね、何とか立ち上がって前に進むことで、少しは近づくのでは無いかと期待しているのです。 出来れば大らかな気持で、悠々と死んでいきたいと夢見ているのです。

 

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